昭和42年11月11日 朝の御理解



 お取次ぎを願いお取次ぎを頂くと言う事が最近、それが最近の教団での一つの流行語と言った様なのではなくて、真実矢張りそうでなかなければならいと思うんですね。お道の信心をさせて頂く者は全てお取次ぎを願い、そしてお取次ぎを頂くと言う訳で御座います。細々した事まで、お取次ぎを願わせてもらうところに安心が生まれる。お取次ぎを願えば、安心が生まれるというのではなくて、お取次ぎを願わせて頂いたら。
 お取次ぎを頂かなければならない。私共が願い事なら願い事やらさせて頂いたならば、また神様の願いである所の、神様の思いとでも言うかそう言う物を頂いて帰る。お取次ぎお願いお取次ぎを頂いて帰る。いうなら自分の言う事だけではなくて、神様の言うて下さることも聞いて行くと、そこに初めてお取次ぎを頂いての生活。そこに例えばそれは右になり左になりましても、安心の出来れるおかげが受けられる。
 そしてはぁやっぱりおかげであったな、是もおかげであったなと言う事になるので御座います。 是はお取次ぎを願うと言う事、そこんところに、あのお取次ぎを頂いときゃと、お願いさえしとけば、安心と言った様なのでは、ほんとのものじゃないですね。様々な問題の中から、神様のまあ言うなら一分一厘の間違いのない、お働きを受けて行く。その中からお取次ぎを頂く者の幸せと言うか。
 そこに金光大神お取次ぎと言うことをまあ、親先生のお手代わり、金光大神のお手代わりをして下さる、親先生のお取次ぎを頂いて、そこに金光大神お取次ぎの働き、と言う事が、現れて来る訳ね。是も言われるお取次ぎを、お取次ぎを頂いて、そのお取次ぎの働きと云う事をです、お取次ぎを願ってお取次ぎを頂いて、そしてそこに銘々の生活の現場と、言う物を四代様は仰っておられるんですね。
 生活の現場って言うことを仰る。その現場現場においてです。生神金光大神の取次ぎの働きを、現していく。間違いのないお働きだな、有難いお働きを頂きよるものだなと言うことを、私どもが、確信するねぇ。ただそのお取り次にそうした、現場現場においての、その働きをですね、それを現し頂ききらずに、いかに例えて言うならば、御結界を拝んでも、お取次ぎを頂いても、それは大したことはない。
 ほんとにお取次ぎの働きと言う物がですね、お互いの現場に現れて来る、それは生き神金光大神のお取次ぎを頂いておるんだと。生神金光大神のお手代わりをして下さる、親先生の祈りがここにもあるんだと、それを信じさせてもらうところに、おかげが受けられる。ねぇ。ですからそういういろいろな問題を通してですね、いろんな願い事を通して、生神金光大神、お取次ぎの働きを、現場に頂かせて貰うて初めて。
 お取次ぎの働きを願うた、又は頂いたと言う事が言える。最近私見えませんけれどもあの、テレビに、なんですか、ここにこう風呂敷包みを、こうして何かこう、まあ何ていうでしょうかあの人は、東京ボンク。東京ボンタさんじゃないですけれどもですね、もうほんとに馬鹿の振りしとるんです。ありゃもう、自分な田舎者だ。そして東京の、人気をかっさらってしまっておるという感じでしょうがねぇ。
 もうそれこそ、テレビでも出るならもう、しょう者な上にもしょう者、シャレタ上にもシャレタ、ふうでもして、普通は出るんですけど、わざと反対。あの百姓の若けもん、今どきゃあんな若け者居りますまいけれどもです、もうほんとに、その田舎者だと、田舎っぺだという、風袋、風采をしてですたい、そして田舎弁を使ってです。ほんとにもう、ほんとに田舎もん、田舎もんちゃちいわしてから、笑われながら。
 実を言うたら東京中の人気をかっさらってる、まあ東京じゅうじゃないですね、日本中の人気をさらってるという感じが致しますですね。私はですね信心をさせて頂いておると言う事ですね、看板にしておかげを頂こう何て言う様な人がある事ですね。もう何処行ったっちゃ自分は金光様の信心しとる、もう銀行に行ったっちゃお得意さんに行ったっちゃ。私共は金光様の信心しよるけんもう私は間違いないと言う事をですね。
 言わば売り物に自分の信心を、しておると言った様なですね。是は厳密に言うと私共も、過去においてそんな感じがしますですね。私は何処に行くでも、昨日、元旗崎の教会にいて総代をしておりました、山口っつぁんという今は杷木に、熱心にここに今まいって参ります。それで昨日ご主人の方が、参って見えられてから、丁度私も、髯を当りに来て貰っとりましたから下がっておりました。
 それから控えでお茶でもあげてたら、ここの先生はもうほんとに、昔から違うとりなさりましたですもんねち。もうどこに行ったっちゃその、先生の話しは違うとりました。その時分私の風体というものを、見ておられる訳ですね。もう洋服、勿論背広着とりますけれども、もう必ずここから赤い、御神米入れがのぞいておった。ここんところへ。それは、別に私は、金光様の信心を看板にしとる訳でもなかったけれども。
 矢張りそれは何ですか、なんて聞かれる人がある、御神米です。そっから金光様の信心の話をする、と言った様な、まあ事だったけれども、あの時分の事を厳密に自分で考えてみてからですね、矢張り自分が信心しとるけん、間違いがない。私と取引したっちゃ、あなたが騙される様な事はない、と言った様な物をですね、何かやっぱり、看板にしておる訳ではなくても、そんなものが、なかったとは言えない。
 私の店は、金光様の信心しよるけん、もう決してその、よそさんの様な、取ったりの仕事しませんよと、言わんばかりの様なですね。そういう生き方の中にはですね、今日もそこだけに、例え今日は焦点を絞って頂いたのですけれどもですね、そう言う様なあり方の中には、いかにお取次ぎを願い、お取次ぎを頂いても、そういう現場にお取次ぎの働きというものは、現れて来ないと言う事です。
 なんとはなしに言われる事、される事。実意丁寧なその言うなら商売なら商売ぶりと言う物がです、違う違うと思いよったら、金光様の信心しよんなさるとげな、というものでなからなければ、いけないと言う事ですね。東京ボンタさんの様な訳にはいきません。だからもう一人でからガバーっと、こん中に、とってしまうと言う様な生き方ではですね続かんです。一回二回はそれに引っ掛りましてもです長くは続かん。
 私共が信心生活の中に、そう言うような事がとても、ある筈はないのだけれども、厳密に言うと、あるんですね。自分の、ぶかたが悪くなると、金光様の先生がこう言いなさった、というような事を、信心の無い者にでも言うわけですね。そこを強調する訳です。私は金光様の信心しよるが、金光様とはこうだと、言う様なですね、まあ是は皆さん厳密に言うてからですよ。
 信心を一つの売り物にしておる様な、矢張り根性がですね、おかげが受けられません。そういう根性ではおかげは受けられません。ねぇ。その生活の現場にお取次ぎの働きを、生き生きと表す事は出来ません。いかにもそれを現し得た様に、あの人は金光様の信心しござるけん間違いあるまいと、例えば思わせておいてもですそれは長続きするもんじゃありません。だからここんところをですね、私はもうほんとに教えを頂いて。
  いわゆるお取次ぎを願い、お取次ぎを頂いて帰ってです、その頂いたものが、生活の現場に現れてこそ、あそこに、お取次ぎの働きというものが、生き生きとして、頂けれるので御座います。それこそ、あの商売人、水商売なんかの家にまいりますと、おいなりさんなんかもう店に一番、そこんとこにこうやって賑々しゅう、お祭りしてあります。あれは勿論商売繁盛と言う事でしょうから。
 まあ見せる訳ではないでしょうけれどもです、私共の中にもそれがあった。久留米あたりのある商売人の家に行くとです、もうお店の此処ん所にお神様お祭りしちゃる。自分方まるでお稲荷様のごと思うとる金光様を。もう市場で大きな商売しよるんですよ。もう実を言うたらこげなん可笑しい事ないです。私は金光様の信者じゃけん家は間違いがない、と言わば売り物にしておる様なもんですそう言う事ではですね。
 例えそれが繁盛しておってもおかげ頂きよっても、いわゆるほんとのおかげになって来ない。それこそ神様というのは言わば奥の奥の一番聖場な、ほんとに御祈念のしやすい所にです、お祭りしてあって然るべきです。それがもうどこででも売れりゃ金光様有難う御座います、そのまるきりお稲荷様様な頂き方ではですね、今日私が申します様なお取次ぎを願い、お取次ぎを頂いていっておる者の信心の姿ではない。
 それではいわゆる銘々の働きの現場、生活においてその現場においてお取次ぎの働きを表す事は出来ない。と言う事をですね今日そこん所に私は焦点を置いて、おかげを頂いて貰たいとこう思うのです。ね。言うならほんとに馬鹿とあほで道を開けと仰るから、ほんとに有難い心でと言う事が馬鹿とあほで、と言う事で御座いましょうけれども有難い者がないのに、馬鹿の振り振りしてですたいガバッと儲かる為に馬鹿の振りしておると言った様な事では、おかげにならんと言う事。
 東京ボンタじゃないけれども田舎、田舎っぺの風をしてです東京中の人気を例えば、かっさらうと言った様なですね、生き方ではいけないと言う事。信心頂いておりますと言う事を看板にしちゃ詰らんねぇ。それでは決してほんとのおかげにはなって来ない。はぁまた信心しござるけん間違いあるまい。と思わせといてからガバッとこっちがおか頂く為に、その手を使っておると言う様な事ではおかげにはならん。
 なるほど金光様の御信心でも頂いておれば、それは人から、後ろ指さされ様な事をする筈はないのだけれどもです、ほんとにお取次ぎの働きと言う物を信じるならばですねぇ。私はそういう必要はない。お取次ぎを願ってしかもお取次ぎを頂いて帰ればです、そこに神様の生き生きとした、お取次ぎの働きと言う物は必ずあると言う事を一つ、確信したいと思いますね。
   どうぞ。